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国指定重要文化財(建造物)
宇和島城天守 一棟
宇和島城に正式の天守ができたのは、藤堂高虎の築城のとき、慶長六(一六〇一)年ころであったと考えられる。
しかし、そのときのものは今見るものとは異なって、自然の岩盤の上に立つ珍しい形のもので、現存のものとは全く形が異なっていた。
今の形に建て替えられたのは、伊達氏になって二代宗利が城の大改修をした寛文年間(一六六一~七二)である。
独立式の天守で、三重(層)三階、白壁の総塗り込め造り。土台から棟までの高さは一五・八m。初層は六間四方、二層は五間四方、三層は四間四方と順次同じ比率で小さくなっており、塔風の形態となっている。正面最上層の屋根には大きな唐破風、その下の二層の屋根には大きな千鳥破風、一層には二つの千鳥破風、更にその下に玄関の唐破風と変化をつけた屋根が白壁に映え、安定感があり、極めて優美な姿をみせている。
式台のある玄関や建物の周囲、石垣との間に余地を残していること、内部に長押や建具があることなどとも相まって、鉄砲狭間や矢狭間、石落しなどがなく、天守としての武備の要素が薄れて、領主の威容を示すことに重点が置かれるようになった江戸時代の時代相を表現している。
寛文年間の建築後、万延元(一八六〇)年にも大修理が行われた。昭和三五年より満二か年を費やして大々的な解体修理が行われ、昭和三七年一〇月に完成した。
この天守は、国内に現存している天守一二棟のうちでも江戸時代の様式を表現した代表的なものとされている。
現存の天守一覧(年代順)
斜体は国宝、他はすべて重要文化財
城名(所在地)、建立城主、建立年代
藤堂高虎創建天守 復元立面図
復元:三浦正幸(広島大学教授)
天守雛形(模型)(万延元年天守修理時作成)
1階にある1間半の武者走り
社寺建築なみの欄干
3階からの宇和島湾の眺め
武者窓
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