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市指定 安藤継明廟所

印刷用ページを表示する 記事ID:0002344 更新日:2019年3月11日更新

市指定記念物(史跡)

安藤継明廟所安藤継明廟所

  • 所在地 吉田町御舟手
  • 所有者 海蔵寺
  • 指定日 昭和四九年三月一日

 寛政五(一七九三)年吉田領内で勃発した百姓一揆すなわち吉田騒動(武左衛門一揆ともいう)は、日本農民運動史の中でも特筆されるものである。まず、暴動誘発の直接的な動機として、紙専売制度に対する反抗という特殊な一面をもっていたことがあげられる。次にこの騒動は、農民側が紙の専売にたずさわる御用商人高月両家(叶・三引)の引き壊しをスローガンとしてとりあげ、農民結集に成功した段階で戦術を転換して吉田藩との直接交渉を避け、その宗藩である宇和島藩を騒動収拾の当事者たらしめたことなど、画期的な要素をもつものであった。

 藩主村芳は当時未だ一六歳にして江戸にあり、藩政は国元の家老まかせであった。一月に農民側から出された願書は、「願いの筋相立たず」と全てしりぞけられたため、農民側は一揆に立つことを決せざるを得なかった。

 同年二月一〇日に山奥より集結した農民は、川筋の村々でその数を増し、近永を経由して十一日夜、宮野下へ結集した。

 吉田藩では、末席の家老安藤儀太夫継明が、紙方役所の廃止など藩政改革を強く主張し、他の家老たちも折れた。直ちに役人を宮野下に走らせたが、農民側は吉田藩を信用せず、宇和島藩に逃散することに決した。十二日には宇和島城下の八幡河原へ移動を始めた。海岸地域からも続々と追いかけてきた。

 宇和島藩は、代官を河原へ派遣して、農民側への説得をおこなったが、、吉田領全村がそろうまで待って頂きたいと答えるのみであった。

 家老安藤は、一四日早朝に宇和島に入り夜明けを待った。八幡河原に赴き、願いを聞き届けることを伝えようとしたが、農民たちは宇和島藩に訴えるつもりであり、数人の百姓が家老の前に出てきただけであった。

 家老安藤は、藩政の非を詫び、片時も早く願書をまとめて提出するよう一同に申し伝えよと言い残して、その場で切腹した。解決が長引けば吉田藩にも農民側にも大きな犠牲が出ることを恐れてのことであった。

 最終的に集まった農民は七千六百余人となった。安藤の死を契機として、一揆側との交渉は急速な進展をみせ、一一か条の願書を提出して群衆が城下を退散したのは一六日も昼過ぎのことであった。

 二月二六日、吉田藩郡役所から農民に対して正式の通知がおこなわれた。二三条に及ぶ回答では、農民側にとって非常に有利な措置がとられることが約束され、農民側の勝利となった。

 嘉永七(一八五四)年継明を鑚仰する人たちによって海蔵寺山内に廟所が造営され、土佐、九州など遠来の参詣者もあとをたたず、山門内外は昼夜市をなしたといわれている。ちなみに廟堂は吉田の名工二宮長六の手になるものである。

 その後、明治六(一八七三)年信者有志により桜丁安藤邸跡に神社を建立し、継明神社と称した。のち、安藤神社と改称され今日に至っている。


文化的景観
埋蔵文化財