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市指定記念物(史跡)
時観堂跡
寛政六(一七九四)年、吉田藩は東小路に藩校時観堂を設立し、同年一一月二七日、第六代藩主村芳来場のもと、教授森嵩による論語の講義をもって開校した。
伊予では、延享四(一七四七)年大洲藩(止善書院のちの明倫堂)を最初として、寛延元(一七四八)年宇和島(内徳館のちの明倫館)、そして吉田と南予の諸藩がつぎつぎに藩校を開設したのは注目すべきところである。
商人町(本町)から横堀大橋をわたると、武家屋敷の東小路の西角に横堀番所があった。それから路地を隔てて上手(現在宇和島信用金庫から北側にかけて)に時観堂の校舎(藁葺き平家造であったと想像される)が建築された。
時観堂の内部は、床の間に孔子をまつり、上段の間は教授室、次の間に補教室、二四畳の間が生徒室で、ここで講義がおこなわれた。また、庭をへだてて教官の官舎があり、さらに武芸練磨のため槍術場、撃剣場などが設けられた。
藩校に入学を許されるものは士分以上の子弟に限られていた。入学の年齢は九歳より二〇歳、学費については不明であるが、学校の維持運営の費用はすべて藩が出していたようである。
授業時間は、毎日午前九時より午後三時まで読書、習字などの勉強があり、それより夕方までを夕稽古といって、武術がおこなわれた。
授業の内容は、大学、論語、孟子、中庸、詩経など漢学がその中心であり、ほかに国学、習字などがおこなわれた。
授業課程については、四、五日ごとに復習をさせ、その成績を記録するほか、大小の試験があり、小は月一回、大試験は年に一度御聴問と称して総裁(家老)が臨席し、その前で進講あるいは討論させて、優等のものには賞が与えられた。
教官の構成は教授二人、同副役一人、書生一人、句読師となっており、別に学館目付があって校務一切を監督した。
この藩校は明治二(一八六九)年文武館と改称され、場所も北小路鈴村邸(現在の吉田病院の前)に移されたが、明治四年廃藩置県にともない廃校となるまでの七七年間にわたり、藩士子弟の教育の場としてその機能をあますところなく発揮した。
なお、廃校後も、明治大正を通じ、時観堂教学の流れを汲む人たちが、新時代における吉田町や旧吉田藩領内の児童生徒教育に影響を与えてきた。このことを考えるとき、時観堂が果たした役割は、その創立の目的をはるかに上回るものがあったといえよう。