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市指定 椎本芳室の寶篋塔

印刷用ページを表示する 記事ID:0002335 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

椎本芳室の寶篋塔椎本芳室の寶篋塔

  • 所在地 天神町
  • 所有者 龍光院
  • 指定日 平成一一年一月一八日

 龍光院の石段を上った右手に高さ約一・六m・幅約六〇cm・厚さ約四・五cmの「寶篋塔」と刻まれた自然石が北向きに建っている。裏面には「延享三年春丙寅春二月十五日」と建立の年月日が記され、その左上に

 諧道大鈞 (諧道ノ大鈞ニシテ)
 鴻烈存焉 (鴻烈焉ニ存ス)
 鴻寿千鶴 (鴻寿ハ千鶴ニシテ) 行藏万亀 (行藏ハ万亀ナリ)
 新文斯碑 (新タニ斯ノ碑ニ文シ)
 眞遺後人 (眞ニ後人ニ遺ス)

 と四言古詩の碑文が書かれ、その右下には「姓谷脇六郎右衛門 誹号恩竹 建」と刻まれている。

 さらに碑の横には「浪華之仙叟椎本芳室寿藏之銘」とある。

 芳室(寛文四年・一六六四)~(延享四年・一七四七)は大坂の人で、初め談林派の西山宗因の門人岡西維中に師事し、のち椎本才磨の門に入り椎本氏を継いでいる。編著に俳諧集「白玉梅」や自らの八十賀集「蓍之花」等がある。(この『蓍之花』五冊のうちの一冊は『妻戸の花』として吉田町図書館にある。)

 建立者の谷脇恩竹の出自は土佐らしく、宇和島の米澤屋という富裕な町人であったと思われる。俳諧では大坂の芳室に師事し宇和島地方で活躍したらしく前述の「妻戸の花」では句を付けている。

 碑文の大意は「浪華の俳諧の大御所芳室は斯道における創造の神の如く大功がある。しかも長寿の生涯は千の鶴万の亀の如くめでたい。ここに新しく宝篋塔を建てて詩を刻み後世に残す」というものである。

 芳室や恩竹の活動時期は芭蕉没後四、五〇年経った元文(一七三六)~延享(一七四七)ごろであった。当時、蕉門は派閥に分裂し芭蕉の詩精神・文学理念は失われ、芳室の属していた談林派や貞門派は表層的なユーモアや平明・類型的作風に堕していた。俳諧の卑俗化は大衆化を促進し子規のいわゆる「月並俳諧」となった。都市俳壇の宗匠たちの関心は俳諧よりも収入に傾き、点者として地方の富裕な門人を多く指導した。

 この「寶篋塔」はこうした俳諧の卑俗化、大衆化の時代における都市俳壇の点者としての宗匠と地方の裕福な門人との関係を象徴的に示しているものと言える。

 また「寿藏之銘」と記されているところからこの「寶篋塔」は芳室の俳諧での功績を記した生前建立の墓標であることは明確である。そこから当然、恩竹には「宝篋印塔」の意識があったものと考えられる。「宝篋印塔」は元来「宝篋印陀羅尼経」を納める方形の塔を意味したが、日本では鎌倉時代中期以降墓標として用いた。形は基礎・塔身・笠・相輪から成るのが普通で、自然石を「寶篋塔」とし、さらに顕彰碑をも兼ねているものは珍しい。

 因みに芳室はこの「寶篋塔」建立の翌年没している。また設置場所は何度か移転されていて最初の場所は特定できないが、西向きではなかったかと思われる。


文化的景観
埋蔵文化財