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市指定記念物(史跡)
山家公頼の邸宅跡
丸之内の和霊神社の社地は、宇和島藩一〇万石初代藩主伊達秀宗の家老職総奉行、山家清兵衛公頼の邸宅跡である。
山家清兵衛は、疲弊した藩の財政を立て直し、藩主を補佐して、忠誠を尽くした人で、領民からも敬慕されていたという。
秀宗は入部当時、父政宗から多額の借金をした。元和四(一六一八)年、その返済をめぐって藩内の意見が対立した。結論は清兵衛の献策によって、一〇万石のうち三万石を政宗の隠居料として分割返済することになった。この件や翌五年の大坂城石垣修築工事が事件の伏線となった。
元和六年六月三〇日夜、秀宗の意を受けた武士たちが山家邸を襲い、清兵衛を始め、二男、三男および縁故者までも殺害し、四男美濃(九歳)をも井戸に投げ入れて殺害したとも、また誤って投げ入れ致死させたとも伝えられている。
以来、天変地異や要人の変死などが続発したという。
この事件の真相は史料が極めて少なく明らかではない。しかし、仙台の四代藩主伊達綱村の宇和島藩二代藩主宗利宛書状に「兼て及承候ハ、秀宗公山家清兵衛と申者御成敗」とあり、清兵衛殺害が秀宗の命によったことは明らかである。
凶変の後、邸宅は取り払われ、藩の倉庫敷地となっていたが、明治二(一八六九)年版籍奉還により国有地となった。その頃この地に小祠を建て、和霊神社(丸之内)と称したが、明治三一(一八九八)年この地を伊達家が払い下げを受け、うち一部を同神社に寄進した。
本殿裏の一・二m方形の石造りの井戸は、四男美濃が投入されたところという。
この井戸は清水が湧き枯れることがない。井戸の上には祠が祭ってあり、子供の守護神として参詣者が多く、いろいろな玩具のお供えが今に絶えない。
また本殿はその昔、宇和島城の守護神として、今の南予護国神社の場所に奉斎してあった日吉神社(山王権現あるいは山王様)を、明治四一年内務省令により本殿をここに移し、和霊の神霊と相殿に合祀したのであって、流れ造りの本殿は、藩主自ら昇殿拝礼の儀を行うため、その構造も大床の間口がとくに広く、一・八一mもある。寛文二(一六六二)年二代藩主宗利の建立で、御扉上の蟇股には、名工の作と思われる三猿の彫刻がある。