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市指定 桑折宗臣の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002325 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

桑折宗臣の墓桑折宗臣の墓

  • 所在地 野川 龍華山等覚寺
  • 所有者 桑折家
  • 指定日 昭和三八年二月一一日

 桑折宗臣は、寛永一一(一六三四)年伊達秀宗の四男として江戸邸で生まれた。七歳で桑折一五世宗頼の養子となり、一九歳で桑折一六世の主となった。その後、城代家老として秀宗・宗利二侯に仕えた。

 この経歴から見ると、青年期以後ほとんど宇和島で生活したものと思われ、近世初頭の上方や江戸の風潮を、身をもって長く体験したとは思われない。にもかかわらず、和歌・俳諧・書画・茶道・弓術・禅と、文武両道にわたる豊かな教養の持ち主であった。

 宗臣は柿本人麿・菅原道真を尊敬して、自らその像を描き、源氏物語や百人一首を愛読した。しかし、創作においては、主に俳諧・発句に意を注いでいたようである。彼は貞門派の北村季吟について俳諧を学んでおり、号も本水・青松軒など数々持っている。彼の著書の中で、現在その内容の知られるものは、ほとんどこの俳諧関係のものである。

 『宇和島百人一句』は、小倉百人一首にちなんで、宇和島領内の俳人百人を選び、それぞれ一句をあげて一巻としたもので、次にあげる『大海集』より、やや早く編まれたと推定されている。

 『大海集』は、寛文一二(一六七二)年宗臣三九歳の時の編著である。これまでに彼が目を通した俳書六〇余部、句数一五、六万の中から、ことさらに高い文芸性をねらわず、誰もが楽しめる文芸としての発句を選び編纂されたものである。座頭や女性、それに年齢を記した子供の句まで入れてある。三九国にわたって俳人八三二人を選び、約五千句が集められているが、そのうち一五六人は宇和島領内のものであり、郷土人宗臣の面目がうかがえる。また、「雑冬」の部に、彼の発句大海に塵をも選ぶ海鼠かながある。海鼠に自らを見立てて、大海集編纂の気持ちをしゃれているのである。

 『詞林金玉集』は、延宝七(一六七九)年宗臣四六歳の編纂である。内容は、貞門・談林の俳書九七冊から、約二万の秀句を抜粋したものであり、十数年にわたっての労作である。藩政に参与しながらの、この宗臣の実践力には敬意を表さずにはおられない。また、選んだ俳人の中に、後に大成した桃青(芭蕉)や西鶴があるのを見ても、彼の眼力の確かさがわかる。

 『青松軒之記』は、宗臣が若くして来村河内谷に庵を結び、青松軒と称していたその滞留中の記事である。文章の間には和歌や発句が詠み込まれており、例えば芭蕉の『幻住庵の記』などの系列の文芸の先駆をなすものと見ることができよう。

 貞享三(一六八六)年三月三日、近世初頭の伊予俳壇の先駆者桑折宗臣は、五三歳でこの世を去った。辞世にいわく、

 月の入る山のあなたは雲(はれて)心にかかるくまもなき(かな)

 墓は、野川の龍華山等覚寺にある。

 (辞世の( )内は、現存の資料でははっきりせず、愛媛大学名誉教授和田茂樹氏の推定によった)


文化的景観
埋蔵文化財