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市指定 末廣鐡腸の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002320 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

末広鉄腸の墓末廣鐡腸の墓

  • 所在地 大超寺奥 大超寺
  • 所有者 不明
  • 指定日 昭和三六年十一月三日

末広鉄腸 末廣鐡腸、名は重恭、幼名雄次郎。藩士末廣禎助の二男として嘉永二(一八四九)年二月二一日、笹町で生まれた。維新の功臣都築温は兄である。

 藩校明倫館に学び日夜精励、「文庫」中の蔵書は殆んど読破したと言われている。明治二(一八六九)年二一歳で教授に抜擢された。翌年には八幡浜の上甲振洋、東京の林鶴梁、京都の春日潜庵に師事し陽明学を学んだ。明治五(一八七二)年帰郷し神山県(後の愛媛県)属、七年には大蔵省に出仕したが、ほどなく辞職、翌八年(一八七五)年東京曙新聞の主筆となり筆名を鐡腸と号した。この年公布された讒謗律・新聞紙条例を攻撃し最初の条例違反者として投獄された。ついで朝野新聞に転じ論陣を張りしばしば処罰されたが、この筆禍が論客としての名声を高めた。

 一方鐡腸は政治家としては立憲政治を強調した。明治一七(一八八四)年自由党が結成されると加盟したが、党首板垣退助の外遊に反対して同党を去った。その後も朝野新聞の主筆として健筆をふるったが、糖尿病となりその静養中の明治一九年「雪中梅」と「二十三年未来記」を、そして二〇~二一年には「花間鴬」の政治小説三部作を執筆発表しベストセラーになった。これらは自分の政治思想を盛ったもので文学として高く評価することはできないが、よく時代思想を表し啓蒙的な意義は大きい。

 明治二一年四月から欧米の政治事情の視察に外遊し、翌年帰国した。この外遊中にフィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールと知り合い、小説「南洋の大波瀾」を発表する機縁となった。また宇和島の和霊騒動を題材にした「南海の激浪」を二五(一八九二)年に出版、好評であった。

 政治面では大同団結運動に加わり憲法発布後の国会進出を企図して明治二二(一八八九)年宇和島に帰り、県内各地で政談演説会を開き民権論を主張し、県政界を理論面で指導した。翌二三年第一回衆院選に当選した。しかし民党にありながら政府予算案に賛成したとして支持を失い、二五年の第二回衆院選には落選。二七年第四回衆院選に当選し全院委員長となった。翌年舌ガンとなったが遼東半島還付の三国干渉に憤慨し「戦後の日本」を書いた。明治二九年二月五日、四八歳で没した。

 東京朝日新聞は「今や邦家の前途について画策すべき事頗る多く、益々志士を要するの時に当り、硬骨男児を失ふ。惜しみても余りあると謂ふべし」とその死を惜しんだ。墓は霊亀山大超寺、墓誌銘の撰文は友人末松謙澄。漢文である。

 鐡腸の長男重雄は法学博士、二男恭二は工学博士。そして孫の恭雄は農学博士で魚類研究の世界的権威であるし、市立城東中学校の校歌の作曲者でもある。


文化的景観
埋蔵文化財