ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 新宇和島の自然と文化 > 市指定 大村益次郎住居跡

本文

市指定 大村益次郎住居跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002318 更新日:2019年3月12日更新

市指定記念物(史跡)

大村益次郎住居跡大村益次郎住居跡

  • 所在地 神田川原
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和三六年一一月三日

 嘉永六(一八五三)年の一〇月下旬、風呂敷包みを振分け荷物にして肩に掛け、宇和島にやって来た三〇歳ぐらいの医者風の男があった。

大村益次郎 名は村田亮庵、生国は周防国(今の山口県)。早くから大坂の緒方洪庵塾に学び医学はもとより兵学にも詳しく、塾頭を勤めたほどの秀才であった。二七歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。長州藩もこの英才に気付かず、一村医者としての不遇な生活を送ること三年、その才能を活用しようという人が現れた。宇和島藩主伊達宗城である。

 宗城は高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていたところ、緒方洪庵の推薦により彼を招聘することにした。

 亮庵は、来宇の翌年には、月に米六俵扶持(知行百石に相当する)を賜わるようになり、村田蔵六と改名、郷里から妻を呼び寄せて日々を送るようになった。兵書の翻訳・研究や、軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。

 宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、江戸に上ることを請い、許されて宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去ったのであるが、宇和島に来た時は振分け荷物の貧書生、去るときは供廻りの若党と両掛狭箱を担いだ仲間を引き連れてであった。その栄達が話題になったという。

 江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、宇和島藩士の身分のままで兼ねることになった。

 こうなると出身地の長州藩の方では、この人材を見逃したことが残念でたまらない。宇和島藩へ移籍方の頼み込みがきた。たまたま時の藩主宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係もあるので、無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、長州藩へ移籍させた。彼の宇和島藩在籍は約七年間であった。

 第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍の胆を寒からしめ、明治元(一八六八)年~明治二年の戊辰戦争には東征軍参謀としてその優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立するために努力したが、道半ばにして保守反動派士族の凶刃に倒れた。大村益次郎と、宇和島藩との関係のあらましは以上の通りである。

 彼の死は明治二年一一月五日。その後彼の功績を称えて、東京九段靖国神社社頭に銅像が建てられた。


文化的景観
埋蔵文化財