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県指定記念物(史跡)
伊達秀宗の墓(夫人と殉死者四人の墓を含む)
伊達氏は鎌倉時代よりその名を現わし、陸奥国伊達郡(今は福島県内)を中心として南北朝・室町時代を通じて勢力を拡張してきた豪族であった。政宗の代に至り米沢より移って仙台を居城とし、東北第一の大名となった。
秀宗は政宗の長庶子として天正一九(一五九一)年九月二五日に生まれ、幼名を兵五郎といった。母は飯坂宗康の娘吉岡局。文禄三年、四歳の時、豊臣秀吉のもとに人質となり、慶長元年秀吉の養子格として元服、秀の一字を貰って秀宗と名乗った。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で政権が徳川氏に移ってからは、慶長七(一六〇二)年徳川氏のもとに人質となり、同一四年家康の命により井伊直政の娘、亀を夫人とした。
同一九(一六一四)年、大坂冬の陣に従軍し、一二月二八日その功績により宇和郡一〇万石に封ぜられ、翌元和元(一六一五)年三月に入国した。時に二五歳。
長子でありながら仙台を継がなかったのは、庶子であることと共に、幼い時秀吉に養われたことによるという。
宇和島に入国すると、桑折左衛門を後見役に、桜田玄蕃を侍大将、山家清兵衛を総奉行として政治を行ったが、元和六年六月には山家清兵衛が密命によって暗殺されるという山家事件が起こった。
晩年は病弱のため、跡継ぎの二男宗時に政治をとらせたが、宗時が亡くなったのちは、三男宗利を跡継ぎに定め、明暦三(一六五七)年七月、宗利に位を譲るとき、五男の宗純に吉田三万石を分け与えることにしたので、宗利は七万石を継ぐことになった。
秀宗は明暦四年六月八日、六八歳で江戸において亡くなった。遺骸は秀宗が生母を弔うため宇和島に建てていた白雲山竜泉寺に葬られた。寺名は秀宗の戒名によって浄妙山等覚寺と改められた。(のち龍華山と山号を改称)
秀宗が亡くなると、生前に側近として仕えていた宮崎八郎兵衛と高島太郎衛門は翌九日に江戸で、神尾勘解由は一八日、渡辺藤左衛門は二三日に宇和島でそれぞれ殉死し、共に秀宗の墓の両側に葬ってある。徳川幕府が殉死の禁令を出す五年前であった。
なお夫人の亀は寛永七(一六三〇)年八月に亡くなり、正眼院(今の金剛山大隆寺)に葬られた。