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国指定 宇和島城

印刷用ページを表示する 記事ID:0002314 更新日:2015年7月1日更新

国指定記念物(史跡)

宇和島城宇和島城

  • 所在地 丸之内
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和一二年一二月二一日

 宇和島城の由来は天慶の乱に功績のあった警固使橘遠保が天慶四(九四一)年居城したのに始まると伝えられているが、初めて城のできた年代は、はっきりしない。旧名を板島丸串城といい、戦国時代の天文・永禄年間(一五三二~六九)に、豊後大友氏が攻めて来たころは、高串の土豪、家藤監物が守っていたようである。

 その後、天正二(一五七四)年までは亀が渕城の支城として、西園寺宣久の家臣薬師寺親頼が城主であったが、天正三年以降は本城となって宣久が入城している。

 秀吉の四国征伐のあと天正一三年に小早川隆景の領地となって持田右京が、同一五年戸田勝隆の領地となっては戸田与左衛門が、それぞれ城代として入城していたが、そのころは本城ではなく、大がかりな城郭があったとは考えられない。戸田氏のときは大洲が本城であった。

 文禄四(一五九五)年七月、藤堂高虎が宇和郡七万石の領主となると、この城を本城と定め、翌慶長元(一五九六)年本格的な築城工事を始め、慶長六(一六〇一)年完成した。慶長九年には、河後森城(松野町)の天守を解体し、これを板島丸串城へ運び移し、月見櫓として建立したとされている。

 高虎は豊臣秀吉の家臣であったとき、すでに大和郡山城・紀州和歌山城を、さらに山城淀城を築城するなど、城造りの経験を重ねていたが、大名として自分の居城としての築城は、この宇和島城(当時は板島丸串城)が初めてであった。彼はその後、さらに居城としては今治城・伊勢津城・伊賀上野城の築城を、また徳川家康の命により伏見城・篠山城・亀山城・大坂城・江戸城の設計や工事の指揮に当たるなど、城造りの名人と言うべき人物であった。

 この宇和島城は、標高約八〇mの独立丘陵を主体とする平山城の形式で、典型的な海城であった。平面は五角形をし二辺は海に、三辺は城堀を隔てて城下町に接していた。城山下の三之丸には内堀をめぐらし、城主の館があった。(今の消防署の場所)城主の館が城外に移ったのは、世の中が太平になった伊達二代宗利の時からである。

 城下町は高虎によって河流を付け替えられたという辰野川、および神田川の二つの川によって守られる形になっている。この城下町は城の東部が商人・職人町、南部が武家町に区画され、その外縁部、すなわち山麓に寺院を配置した。これによって出来た城を中心とした放射状の町割は数少ないといわれている。

 宇和島城は高虎ののち、慶長一三(一六〇八)年に富田信高、ついで元和元(一六一五)年伊達秀宗が入部し、以来明治維新に至るまで伊達氏代々の居城となり、現在は伊達家より宇和島市に寄付され、市民に親しまれている。別称の鶴島城の名は伊達氏五代村候によって名づけられたものである。

 板島丸串城と呼ばれていた中世の城跡は、慶長年間(藤堂高虎)、寛文年間(伊達宗利)の二度にわたる大改修によって、現在はほとんど見ることが出来ない。

 宇和島城の遺構は大正時代まで、まだ多くが残存していたが、徐々に取り壊され、国宝に指定されていた追手門も戦災で消失してしまった。現存する建造物としては天守と上り立ち門を残すのみであるが、いまも山中の各郭の跡、石垣はほとんど完全に保存されて、名城の面影を現代に伝えている。

 中世の諸城が、秀吉の四国統一の天正一三(一五八五)年をもって一斉に廃城となったのに対し、この宇和島城は、引き続き偉容を整え、幕藩体制期には南予における雄藩の力の象徴となっていた。以て、この城の歴史的、地理的な重さを知ることができる。

宇和島城絵図(正徳元年)宇和島伊達文化保存会蔵
宇和島城絵図[正徳元年(1711)](公財)宇和島伊達文化保存会蔵


文化的景観
埋蔵文化財