その7 お寺巡り前編(西江禅寺〜龍華山等覚寺〜金剛山大隆寺) |
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宇和島市内の山の手、古くからの住宅街が建ち並ぶ「宇和津町」、「野川」にはたくさんのお寺が集まっています。
お寺には、立派な庭園や先哲のお墓など、一見の価値があるものばかり。
今日は普段乗っている車はやめ、ぶらぶらと散歩をしてまいりました。
まずは前編からお伝えします。 |
はじめに、地図をご覧頂きたいと思いますが、宇和島市の中心部を流れる辰野川、神田川沿いにお寺が集中して集まっています。この一帯は寺町界隈などともと呼ばれており、古い風情が残っている地区です。
今回は、その辰野川(たつのがわ)、神田川(じんでんがわ)沿いに建ち並ぶお寺廻りをしてきました。風情を楽しみ、文化に触れるお散歩の旅。そぞろ歩きの気分でお楽しみください。


辰巳橋

辰野川

西江禅寺

西江禅寺の山門

枯山水の庭園
今日は前編ということで、辰野川ぞいを歩いてみたいと思います。
まず最初に行ってみたのは、西江禅寺。宇和島市民には「えんま様」の愛称で親しまれているお寺です。ここの庭園は美しくてお勧めです。
江戸時代に作られたお庭で、枯山水の様式です。三尊石、枯滝、石橋、礼拝石の配置が見事。その上、晴れた日には遠くの鬼ヶ城山系まで見ることができ、借景の妙を楽しむことができます。
この日もちょっとだけですが、遠くの山が見えました。水平に刈りそろえられた植木がちょうど額縁のようになって、一枚の絵画のような趣です。晴れた日にぜひ、訪れられるとよろしいかと。

この標識が目印。「新宇和島二十四景」に選ばれています。

幕末の技術者「前原巧山」の墓
さて、庭園を見学したあとはお墓にあがってみました。ここには、「前原巧山」のお墓があります。
前原巧山は八幡浜生まれの職人で、宇和島に移り住み、もともとは、いろいろな修理や小物細工を生業としていた町民だったようですが、器用さを買われ、藩命により蒸気船の製造に着手。見事、国産蒸気船を作り出した技術者です。
低い身分であったため、長崎留学の際も大変な苦労をしたようですが、独学で蒸気機関について学び、見事完成させました。その功績は本当に素晴らしいものです。
お墓に刻まれた戒名は「巧山精理居士」。優秀な職人であった巧山の姿がしのばれます。

クルックッー
さて、まだまだ次が控えているので、瓦の上の鳩に別れを告げて、次の等覚寺に向かいます。

龍華山等覚寺

山門
立派な山門が特徴的なお寺で、宇和島藩伊達家の菩提寺の一つです。
宇和島藩は藤堂高虎などが治めた後、大阪冬の陣の功績により、伊達政宗の長庶子「秀宗」が入封し、伊達家が明治まで治めました。この等角寺はその宇和島藩主たちのお墓があります。なかなか豪華な墓所がありますので、早速見に行ってみます。
なお、宇和島では「等覚寺」とはあまり呼ばず、山号の「龍華山」と呼ぶのが一般的です。これは、等覚の二字が初代藩主「秀宗」公の戒名に由来するため、これに遠慮してのことです。

西の墓所
東西に墓所がありますが、まずは近い西の墓所へ行きます。

西の墓所に入ってすぐに見えてくるのが初代秀宗のお墓。

初代秀宗のお墓。さすがのキングサイズ。
大きさがわかるように隣にポールを置いてみました。ポールの長さが2mありますが、そのはるか上をいく巨大さ。ざっと見、3mはあるんじゃないでしょうか。
土台となる平石が3石摘んであり、その上に、上段から「空、風、火、水、地」と刻まれた様々な形の石が5石積まれています。
調べてみると、この形は五輪塔の墓というらしく、宇宙の根本を象徴しているといいます。なんとも壮大ですな。

殉死者のお墓
さて、規格外の秀宗の墓にびっくりした、その傍に少し小さめのお墓が4体ありました。
伺ってみると、なんとこれは殉死者の墓。秀宗の側近でしょうか4人が秀宗が亡くなった後を追っています。主君の死は自分の死とは、こりゃまた壮絶です。
亡くなったのは、
幕府が殉死禁止令を出すわずか5年前のこと。冥福を祈らずにはいられません。合掌。

3代公室 三保の墓
さて、お隣を見てみましょう。
秀宗と殉死者のお墓の横に、秀宗なみのサイズのお墓が建っています。
秀宗の奥さんの墓かと思いきや、これは3代夫人「三保」の墓。三保さんは2代「宗利」の娘です。
ちなみに、東の墓所に3代「宗贇(むねよし)」の墓があるのですが、奥さんにはとても及ばないこじんまりとしたお墓。どうしてこれだけ大きさが違うのか、理由をあれこれと推察してみるのも楽しいものです。

3代のお墓はこれ↑
上の写真とサイズを比べてみてください

さて、次にいきましょう。
隣り合わせに2体ならんでいるのが、9代夫人「孝(たか)」と「佳(よし)」の墓です。
右に見えるのが、孝の五輪塔の墓、左に見えるのが佳の墓です。見てみて疑問に思うのですが、なぜ、墓の形が違うのでしょう?同じ9代夫人なら同じ形で良いような気がしますが、こだわりでしょうかね。
それに、さらに不思議なのは、孝の墓。
五輪塔の墓は初代から6代まで続きましたが、それ以降はこの孝の墓だけなのです。なぜ、古い形を敢えて使ったのか、なんらかの理由があるかもしれません。

さて、西の墓所の最後は4代、「村年」の墓。標識がなければ見過ごしてしまいそうな小ささでした。2代から4代のころは藩の財政がとても厳しかったころなので、それが墓のサイズに現れているのでしょうか。
村年の時には、風水害や害虫の発生などで飢饉がおこり大変厳しい状態にあったようです。そこで、藩政改革を志しますが、それが軌道に乗る間もなく、三十一の若さで参勤交代の途中に亡くなってしまいました。なんとも、可哀想な方ですね。
さて、西の墓所はこれで終わりなので、次は東の墓所へ行ってみます。

4代 村年
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