今回の常設展では、宇和島の基礎を築いた初代秀宗から、5代村候までの藩主たちに視点を当てた
展示内容となっています。当時の貴重な資料と共に宇和島藩の経緯を是非ご覧下さい。

宇和島藩初代藩主 伊達秀宗は、
 仙台藩祖伊達政宗の長男として天正19(1591)年柴田郡(宮城県)村田で生まれました。幼名は兵五郎といい、文禄3(1594)年2月、4歳で豊臣秀吉の人質となり、6歳で元服し、秀吉より1字譲り受け秀宗となりました。 徳川の時代には、家康の命により江戸で人質となり、大坂冬の陣で徳川方に加わり、慶長19(1614)年に2代将軍 徳川秀忠から伊予宇和郡10万石を賜わり、遠江守従四位下となり、宇和島藩初代藩主となりました。
 
 第3展示場では、戦国の時代から江戸幕府が統治する泰平の世へと変わる時代を生きてきた秀宗の幼少時の衣装や宇和島を拝領した経緯を紹介します。
宇和島藩2代藩主 伊達宗利は、
 秀宗の三男として江戸に生まれました。明暦3(1657)年に襲封し2代藩主となり、領内のうちならし検地を実施し、地割制度(くじ特制)をしき、これにより貢租体制と村役人制度を確立しました。元禄元(1688)年宇和島藩で初めて紙専売制を施行し、寛文年間には宇和島城の大改修を行い藩主の居館である浜御殿を造営し初代藩主の後をうけ宇和島藩の礎を築いていきました。
宇和島藩3代藩主 伊達宗贇は、
 仙台藩3代伊達網宗の三男として江戸で生まれました。宇和島藩2代宗利の次女三保と結婚して養子となり、元禄6(1693)年に宇和島藩3代藩主となりました。元禄9(1696)年、吉田藩の分地によって7万石となっていた領知を、幕府に願い出て10万石にする高直しをしました。また、藩や有力な町人による活発な新田開発を実施しました。

 第2展示場では、当時の世相を反映した歴史資料や、絵師、儒学者にまつわる書画もあわせて紹介します。
宇和島藩4代藩主 伊達村年は、
 宗贇の三男として生まれました。正徳元(1711)年にわずか7歳で藩主となり、正徳5(1715)年に遠江守従四位下となりました。治世中は凶作と財政難に苦しみ、倹約を奨励しました。また、製紙の専売制度を実施し、植林をうながし林政を整えるなど改革を進めました。しかし、参勤交代の途中、現在の加古川で31歳という若さで急逝しました。
宇和島藩5代藩主 伊達村候は、
 村年の長男として生まれました。享保20(1735)年、11歳で藩主となりました。大々的な藩政改革を行い、藩学内徳館を開設し、教養の才能にも優れた人物でありました。その手腕ぶりは、当時「三百諸候屈指の良主」と言われたほど賞賛されていました。

 第1展示場では、江戸時代、幕府が諸大名に課した参勤交代の内情を宇和島藩の資料をもとに紹介します、また、宇和島藩中興の祖と謳われた村候が、朝鮮通信使の接待役をこなした際の絵巻や、寛政の改革で活躍した老中松平定信からその治世の功をねぎらう文書を紹介します。
  
押船行列絵巻 狩野昌蔵筆(部分)
押船行列絵巻 狩野昌蔵筆(部分)
宇和島藩の参勤交代
 江戸時代、参勤交代制度によって大名は国許と江戸を往復しました。通常は陸路を行列していましたが、宇和島藩を含む四国や九州の西国大名は海路で大坂まで登ることが許されていました。宇和島藩は国許(宇和島)から瀬戸内海を室津(兵庫県たつの市)まで渡り、後は陸路で山陽道(または大坂まで瀬戸内海を航行する)、東海道を経て江戸まで陸路を行列しています。所要日数は約1ヵ月(海路は全行程の約3分の1程度)を要しました。


 江戸時代、吉田藩の「御掛屋」(=当時お金として流通していた銀を金などと交換する、いわゆる両替商)を代々務めていた佐川家は、江戸時代に西日本を中心に流通した銀(豆板銀・丁銀)は一定の重さではないため、その重さを量り、金(小判など)と両替することを生業としていました。そのため、佐川家には銀と金の両替に必要な天秤や当時実際に流通したお金も伝わっています。このお金は、日本史の教科書でも紹介されている豆板銀や丁銀です。今回の企画展では、この「御掛屋」ならではの資料を中心に、佐川家の系図、吉田藩主から拝領した調度、藩から「苗字」を名乗り「帯刀」を許されたことが記録された当時の貴重な資料を第4展示場にて紹介します。


※期間中一部内容の変更もありますのでご了承下さい。

入口 博物館案内

このページの画像の著作権は財団法人宇和島伊達文化保存会及び宇和島市立伊達博物館に帰属します。
このページの文章の著作権は宇和島市立伊達博物館に帰属します。
すべての画像及び文章の無断転用は用途を問わず禁じます。